中国の長くて短い話(11)〜いなくなったひとたち〜



留学の後期、

中国語と日本語の“相互学習”をしていた女子学生が留学生寮への入室を禁止されるようになった。(その以前から、寮にはいるには登録制だったけど)


私が会いにいったり、そとで一緒に散歩したしていると

“当局”から“注意”をうけるようになって、自由にあえなくなった。

陳さんという機械製造学科の3年生。おかっぱでやせていて、きれいな白い手をしていた。

日本の歌謡曲が好きといっていたけど、ほんとうは私の同級生の中村君が好きだった。

蠟小平の南巡講和の一行のメンバーの一人として、シンセンに行ってそのまま行く不明になったとううわさを後で聞いた。そんな事実はないと思うけど。



(その年入学の時期、北京大学・清華大学に新入生は一人もいなかった。

全員が訓練を受けるため下放させられていた。期間は1年間。ほかの大学も同じだったのかな?)



ガボン共和国からの国費留学生がいた。身長2メートル。

北京に来て1年もしないうちに(清華大学の国費留学生は卒業までに6年かかった)

中国の生活に慣れず、精神が不安定になっていた。

玄関に置かれていたこわれたソファーが彼の定位置で、いつもそこで

視点の合わなくなった目で空を見上げていた。

時々、意味不明の中国をつぶやいていたけれど

私たちは、彼を刺激しないように、そっと通りすぎるようにすればよいことであった。


ある日、私は彼の前で、買ってきたコーラの瓶を落としてわってしまった。

驚いた身長2メートルのアフリカ人は突然立ち上がった。

私も驚いて、走って逃げてしまった。

全速力で走る私。追いかけてくる2メートルの大男。


あわてて、電話室(当時、電話は電話室にいるおばちゃんに番号をつないでもらうシステムだった)へ避難して電話室の鍵をかけた。

力ずくでどんどんドアを叩く大きな少年。

電話室のおばちゃんが寮の放送を使って(電話がくると全館に“○○さん、電話です”と放送があった)

ガボンの学生を呼んで、なだめてもらい、私たちは電話室から出ることができた。

しばらくして、その少年はいなくなった。

病院に入院したとか帰国したとか...事実はさだかではない。

追いかけてきただけで何をされたというわけでもないし

通常はおだやかな人だったけど

なんだか、かわいそうなことをしてしまった。


同級生の中村君のお姉さんは別のガボン出身の留学生と結婚して

いまはガボンに住んでいる。