中国の長くて短い話(1)〜原田さんの部屋〜
留学時代のことを思い浮かべると
最初に頭に浮かんでくるのは、原田さんの部屋の前にあった藍色の暖簾。
太字に白で、読めない難しい漢字が書いてあった。
なんて読むのか毎回、原田さんに聞こうと思っていたんだけど
ドアを開けると、いつもたくさんの人たちがあつまっていて、
わいわいしているうちに暖簾のことは忘れてしまった。
今は何ていう字が書いてあったかも覚えていない。
1991年の北京の清華大学。
今のように学校の外でアパートを借りるというようなことはできず
すべての学生が宿舎にすむ決まりだった。
留学生宿舎はひとつしかなくて
日本人も全部集めても40名ほどだった。
当時の清華大学は第三国からの理系国費留学生をたくさん受け入れていて
80%が男性、そのうちの70%がアフリカ各国からの留学生
そのほかに中南米国から少々、東欧から少々、アジアからはネパール、パキスタン、バングラディシュ、北朝鮮(韓国やシンガポールとはまだ国交がなかった)から少々。
こんな具合だったから3食お世話になる食堂では
アフリカ系フランス語しか聞こえてこなかった
(実際、月に一度の留学生の生徒会みたいな集会ではフランス語が公用語だった)
かれらは実によくけんかをしていた。食堂で。
きっと部族間の終わりのない争い。
そういう理由で、いつも自分で食事を作っている原田さんの部屋には
食事時になるとマイノリティの留学生がいつも何人か集まっていた。
原田さんはあのとき65歳。
日本でご主人をなくされて、お子さんもいなくて、
世間へのしがらみも特になかったので
老人ホームに入居する感覚で清華大学に留学していたらしい。
料理や買い物をする原田さんを見たことはあっても
授業にでているところは見たことがなかった。
原田さんについては北京語を何の不自由もなく流暢に話したので
『太っているけど、実は江青なんじゃないか』といううわさが立っていた。
1991年の春に江青が監獄で自殺をしたといニュースが流れてからは
『連合赤軍の関係者じゃないか』といううわさに変わっていった。
当時の留学生には周囲の人について憶測をめぐらすほか
刺激的なニュースなんてなかった。
その2年前の1989年
私は大学の先輩を訪ねて一ヶ月だけ清華大学に来ていた。
2ヵ月後に天安門事件が起きて、
9ヶ月後にベルリンの壁が崩壊
そうやって世界が大きく変わっていった
(つづく)