天才バカボンの曲が聞こえますか



「天才バカボン」

昭和46年9月25日


西から昇ったお日さまが 東へ沈む

これでいいのだ これでいいのだ

ボン ボン バカボン バカボンボン

天才一家だ バカボンボン




死に直面した状況において希望はどこにあるのか

 清水哲郎(『思想』2001.1)

 「患者が最後まで希望を持つことができるためにはどうしたらよいか」ということは、ことに重篤な疾患にかかわる医療現場において切実な問いである。病気であることが知らされる――だんだん状態が悪くなることを知り、有効な対処法はないことも知る――自分の身体がだんだん悪くなり、できることがどんどん減って行く――死を間近かに感じるようになる。こういう経過を辿る際に、人はいったいどのような希望を持つことができるのだろうか。このような場合においても患者側は「希望を持てるような説明をして欲しい」と医療側に要請する。それにどう応えることができるだろうか。


 このような状況で、「希望」とはしばしば、「治るかもしれない」という望みのことだと思われている。あるいは「自分の場合は通常よりもずっと進行が遅いかもしれない」ということもあろう。いずれにしてもまさに「希望的」観測である。この場合、望んでいることが起きる可能性が全くなければ、「こうなって欲しい」「こうなると好い」と望むこともできないので、たとえ低い確率であっても「良い」経過を辿る可能性を見出すことができなければならない。だが、希望とはこうした内容の予測のことなのだろうか。



 もしそうだとすると、それこそ確率からいって、そうした患者の多数においては、はじめに立てた希望的観測が次々と覆されるという結果にならざるを得ない。それでは「最後まで望みをもって生きる」ということにはならないだろう。そもそも、「癌」と総称される疾患群をモデルとして、「告知」の正当性がキャンペーンされてきたのは、患者が自分の置かれた状況を適切に把握することが今後の生き方を主体的に選択するために必須の前提であったからではなかったか。右に述べたような望みの見出し方は、非常に悪い情報であっても真実を把握することが人間にとってよいことだという考えとは調和しない。



 では「死は終わりではない、その先がある」といった考え方を採用して、希望を時間的な未来における幸福な生に託すというのはどうだろうか。だが、医療自らが、そのような公共的には根拠なき希望的観測に過ぎない信念を採用して、患者の希望を保とうとするわけにはいかない。


 こうして、治癒の望みも、死後の生への望みも公共的な視点からは不適当であるとすると、希望はどこに見出されるのか。



 ところで、死は私たち全ての生がそこに向かっているところである。遅かれ早かれ私の生もまた死によって終りとなることは必至である。その私にとって希望とは何か――考えてみればこの問いは、重篤な疾患に罹った患者にとっての希望の可能性という問題と何らか連続的であろう。そして、多くの宗教は死後の私の存在の持続を教えとして含み、そこに希望を見出そうとしてきた。それは人間の生来の価値観を肯定しつつ、提示される希望である。だが他方宗教的な思想には、死後の生に望みをおく考え方を拒否する流れもある。その場合は、人間はもっとラディカルに自己の望みについて突き詰めるのである――「死後も生き続けたいという思いがそもそも我欲なのである」とか、「自己の幸福を追求するところに問題がある」というように。それは生来の価値観を覆しつつ提示される考えである。では、死が私の存在の終りであることには何の不都合もないではないかとして、これを肯定した場合に、希望はどこにあるか――どのような仕方であれ、「死へと向かう目下の生それ自体に」と応えるしかないであろう。


 人は今度はここで何かを「遺す」ということにこだわることがある――「生きた証しを遺す」とか「人は死んで名を遺す」というように。もちろんこうしたこだわり自体に否定的な考え方もあり得るが、「遺す」ということは結局、終わりに到るまでの生を通して行うことであり、その生の意義をそのようなアスペクトで見ていると理解するならば、これも希望を目下の生自体に見出す仕方の一つということになろう。



 終りのある道行きを歩むこと、今私は歩んでいるのだということ――そのことを積極的に引き受ける時に、終りに向かって歩んでいるという自覚が希望の根拠となる。そうであれば「希望を最後まで持つ」とは、実は「現実への肯定的な姿勢を最後まで保つ」ということに他ならない。つまり、自己の生の肯定、「これでいいのだ」という肯定である。「自己の生」といっても、生きてしまっている生(完了形)としてみることと、生きつつある生(進行形)としてみることとの二重の視線がある。完了したものという生のアスペクトにおける肯定は「これでよし」との満足である。他方、生きつつある生、つまり一瞬先へと一歩踏み出す活動のアスペクトにおける、前方に向かっての肯定、前方に向かって自ら踏み出す姿勢が、希望に他ならない。



 そうであれば、死を肯定するとしても、それが一歩踏み出した先が死であろうともよいのだという肯定的な前向きの姿勢におけるものか、あるいは一歩踏み出すことから退く方向、生を否定する方向におけるものか、が差異化する。つまり、それは希望ある死への傾斜と絶望からの死への傾斜との区別である。前向きであり得るかどうかは、完了形の生(これまで歩んできた生)を肯定できるかどうかにかかる。絶望は、現状の否定の上での、一歩踏み出すことの拒否である。


これでいいのだ

かご猫ほっこり写真集

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